『ある日、いつもの屋上で。』
「犬飼くん。」
声をかけると、相手はほんの少しだけこちらを向き、またすぐ元見ていたほうへ顔を戻してしまった。小さく「なんだ辰か」と呟いたのが聞こえた。
屋上の風はまだ冷たい。シャツ一枚でよく平気なものだと心の中で感心したが、言ってもどうせ大した返事はないだろう。そう思って言わなかった。
「もう休み時間の終わりの予鈴は鳴りましたよ。」
「そうか。」
「そうか、じゃなくてですね。」
「なんだよ。」
「授業は?」
「とりあえず、要らね。」
「なんでですか。あなたは仮にも学生なのですよ。高校に入ったからには授業を受ける義務が……」
「俺が此処に来たのは、投げるためだ。分かってんだろ。」
「……。」
こう切り返されると、辰羅川も返しようがない。犬飼の球への執念は、誰よりも解っているつもりである。小さくためいきをつき、薄汚れた屋上の壁にもたれたまま動こうとしない友人をもう一度見やった。
「……今日の英語はたしか、犬飼くんが当てられる日ですよ。」
「へえ。」
「犬飼くんがいなきゃ、次の出席の方が当てられてしまうんですよ。」
「だから?」
「良心の呵責とか、ないのですか?」
「知らねーもん。」
「…出ませんか、授業。」
「嫌だ。」
再び軽い沈黙のおりたところへ、ついに本鈴が鳴り響いた。辰羅川は、一度はそれにびくっと体を震わせたものの、はあっと深いため息をつくとその場に座ってしまった。
「……行かねーのかよ。」
「今から教室に走ったって、もう間に合いませんよ。英語の授業なんじゃ今頃ちょうどリスニングをしているのでしょうし、そんな中に一人で駆け込むなんてごめんです。」
「…で、それ持ってきたのか。」
犬飼の指差した先には、物理の教科書。辰羅川がふところからさも当然のように取り出したものである。
「はい。まあ説得の結果も大体分かってましたし、それに……」
困ったような、怒ったような表情が一転、気心の知れた友人に見せる笑顔になった。
「私も一度、授業をさぼってみたかったんです。」
にこにこと笑う辰羅川を、犬飼は半ば呆れたような目で見つめていた。
……教科書なんか読むんだったら、授業に出るのと変わんねえじゃねえか。
「何か問題を出しましょうか?苦手でしょう、犬飼くん。物理。」
「…俺は寝る。」
「それは残念ですね。これを機に物理を好きになってもらおうと思っていたのですが。」
「……ふん。」
犬飼は、ついに辰羅川の反対側へ向かってごろんと横になり、そのうち規則的な寝息を立て始めた。
辰羅川は、三度目のため息をついたものの、結局はふっと笑んで、物理の教科書を開き直した。
三十分ほど経っただろうか。
「……?」
「……起きてしまいましたか。」
「…なんか、うるせえ。」
「ええ。なんだか、下の階段がだんだん騒がしくなっ……」
ばたん、と大きな音と共にドアが開き、そして騒音の元となっていた声もダイレクトで二人のところへやってきた。
「だーかーらっ!ここはこうなるっつってんだろ!!」
「しらねーよ!大体なんでせっかく授業サボってんのにこんな意味のわかんねー講義受けなくちゃなんねーんだ!!」
「意味わかんねえってな、ただの一次関数だぞ!中学レベルの超ラッキー問題だわ、こんなもん!」
「んだとこの素敵オールバック!!」
「何ぃ!?」
「やんのか!?」
建物内のほとんどの人々が授業で静まり返っている中、よくこれだけ大声で喧嘩をできるものだ。と、心の中で辰羅川がそう感心しながら見つめていると、猿野と沢松がようやっと犬飼と辰羅川の二人に気付いた。
「あっれ〜!?犬ッコロにモミーじゃねえか!何やってんだ?犬はともかくさ。」
「んだとクソ猿。」
「ガングロで白髪で見るからに不良のお前と違って、メガネで真面目なたっつんがサボリとは意外だなーってことだよ、黒犬」
「…てんめえ……」
「いっ、犬飼くんっ!!抑えて下さい!!…あのね猿野くん、私はただの気まぐれでここにいるのです。それに、猿野くんと…ええと?」
「……沢松だけど。」
「そう、沢松くん。君たちこそどうしてここに?」
「名前すら覚えられてねえぜ、沢松……とことん脇役だな」
「うるせえよ」
「…。あの、質問に答えていただけませんか。」
「あ?ああ、さっきの会話、聞いてなかったの?サボりだってば。お前らと一緒でな。」
ははは、と軽く笑い、だがすぐに少し訝しげに問い返す。
「でも、なんで今頃?もう授業もほとんど終わりかけ…」
「俺ら、最初は保健室でサボってたんだよ。そこでおとなしく昼寝を満喫してりゃあなんの問題もなかったのに、このバカ沢松が……」
「バカとはなんだ、バカとは。そりゃお前だろ、だいたいヒソヒソ話の最中にいきなり“たらちゃん”について議論を吹っ掛けてくるお前が悪い。」
「だって前の説明じゃよく分かんなかったんだもんよ。」
「ありゃギャグだろ、ギャグ!意味なんてねえっつの!!ったく、無駄な労力費やして、ルートの説明から一次方程式のおさらいまでやっちまったぜ。そのくせテメーは一言だって理解しやしねえしな」
「へん、お前の説明の仕方が悪いんだよ。」
「……。で、そんな風にどんどん大声の談義になって、ついには先生に体調の良い事がバレたんですね。」
「おう。そんだけ元気ならとっとと教室もどれって、追い出されちまってよ」
「馬鹿が……」
「おい、なんか言ったか、犬。」
「あーちょっとちょっと、ケンカはやめてくださいよ。」
「そーだそーだ、せっかくのサボりもこんなに疲れるんじゃ意味がない。」
「…けっ、エセハンサムめ。」
「んだと?」
「ケンカはやめましょうってば!」
なんだか賑やかな人々が集まってしまったな。次々と繰り出される喧嘩の火種をせっせと消しながら、辰羅川は考えていた。だが、これも少し有難い、と思う。
「…犬飼くんは、入部してから、前よりも目が明るくなりましたね。」
「あ?なんか言ったか、辰。」
「いいえ、なんにも。どうぞ続けてくださ…ちょっと待って。皆さん、何か聞こえませんか?」
「へ?いや、別に…」
「お、おい天国っ!マジで聞こえんぞ、階段上ってくる!!」
ぺった、ぺった。何かを引きずるような、学校内という場所ではすぐさま誰か特定できる足音。
「スリッパ履いてんじゃねーか!?だとしたら相手は先公だぜ!」
「やっべ、騒ぎすぎたか…って、犬!てめえどこに……」
「決まってんだろ、タンク登って隠れるんだよ。」
「何ぃ!?待て、俺らも行くっ!」
「わ、私も…!待ってくださいよ皆さん!!」
四人で登ったそこは、今までいた場所よりまた一段高く、風がずっとまっすぐ吹きつけた。何故だか気持ちよくて、思わず目を閉じる。すうっと息を吸うと、鼻の奥が少しつんとした。
「そういえば、犬飼くんはいつもここにいることの方が多かったですね。」
教師が去ったのを確認してから、辰羅川は後ろの方へむかって言った。茶色の瞳が一瞬きょとんとし、そしてまたけだるそうに細くなる。
「ああ。」
短すぎる返事に苦笑しながら、横の方で再び小競り合いを始めた猿野たちを見やった。
「……ここに来たくなるのが、よく分かります」
「そうか」
しばらくすると、授業の終わりを告げる鐘がけたたましく鳴り響いた。四人共が、それに少し顔をしかめる。もう、騒音のない自分たちだけの時間は終わったからだ。
「…あ〜あ、自分が出てないときは、授業ってのは永遠に続いているべきだと思っちまうな。」
「んな超自分勝手な…だいたいてめえ、それじゃ凪さんに会えないんじゃねえのか?」
「ああっ!そういえばっ!!」
「大体、もう次は部活じゃないですか…さあ、行きましょう。」
「まて。」
「?犬飼くん。なんですか?」
「今行ったら、まだみんな帰りの準備やってんだろ。」
「ええ、まあ。」
「俺、あれ、嫌いだ。」
「……。じゃあ、もう十分ほど待ちますか。」
「俺らは行くぜ。バカ犬、そのまんま部活寝過ごしたりすんなよー。」
「……。」
その後、猿野が動くよりも犬飼の蹴りのほうが早かったため、彼は七メートルのフリーフォールを体験することになる。
「…い、犬っ!!てめえ何しやがんだっ…死ぬかと思ったっ!!」
「…イヤ、なんで生きてるのか不思議ですよ。“死ぬかと思った”って、もう綺麗に落ちてるじゃないですか……」
「とりあえず、サル山にでも帰れ……。」
「はは…あいつはホント不死身だわ……んじゃ。お騒がせしました〜。ホレ天国、行くぞ!」
騒音の去った後。
「ねえ、いつまでいるんですか?」
「…みんなが部活に行き始めて、それから五分くらい経ったら。」
「……牛尾キャプテンに叱られますよ」
「…あの人、怒ると恐いけど…やっぱ、俺、のんびり行きたい。」
「……本っ当にマイペースですね。」
「悪いか。」
「いいえ。」
もう昔からのことですから、慣れましたし。
そう返してくすくすと笑う辰羅川を、犬飼は面白くなさそうに睨んだ。
「…なんで笑う。」
「さあ。なんででしょう。」
分かりませんね。何故だか、笑えてくるんです。
君らしくて。昔から知っている、記憶の中の幼い君とちっとも変わらなくて。
こんな時間は、いつまで続くんでしょう。
辰羅川は、ずっと微笑ったままだった。
-------------End
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某サイトさまで「カップルじゃない犬辰小説見たい」という呟きを拝見し、そういえばあの二人でカプなしの作品って少なそうだなあ・と好奇心が湧いて書いてみたものです。でもやっぱ個人的な趣味が出て猿+沢混じりました; だって好きなんですもの鬼ダチコンビ…!(笑) 基本的に仲良い人たちが好きです。だから猿+子とか七橋とか黒撰が好きなんだろうなあ…純粋に仲が良さそうで、楽しそう。虎鉄+獅子川(+猿野)なんかもいつか書いてみたいですね。。
たっつんは個人的にはかなり好きなキャラなんですよー!実は犬飼より好きです(ぇ) 丁寧語キャラ好きなのかも。たまに見る黒いたっつんも大好きです 本気で一回鹿目さんとの言い合いとか見てみたい!(笑)